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自分の人生なんだから、好きに生きようや

くたばる喜びとっておけ。

久しぶり、私の日記。

去年は一度も更新することがなかったね。

 

少し、去年の話を聞いてほしい。

長くなるだろうから、興味がある人だけ読んでくれたら嬉しい。

 

 

私は人生で初めて
『死にたい』という感情を抱いた。

 

その初めての感情に、終始困惑していた。

 

そもそもの原因は何か。

正直、自分の中でも明確ではない。

 

 

ただ、とにかくストレスの多い1年だった。

それは世界中みな同じこと。

 

そんな中で私は、自己肯定感というものが下がるどころか一切合切失った。

 

 

これまでの私は、とにかく自分が大好きだった。

どんな場面においても自分らしさを重視していたし、全面に振りまいていたと思う。

承認欲求が人よりも大いにあった。それでいて、その欲求を満たす方法を知っていた。

 

 

 

 

それなのに、なぜ『死にたい』と思ったのか。

 

 

 

 

1番大きな理由は、笑顔が減ったこと。かもしれない。

テレビやネットニュースを見れば、コロナコロナと文字が羅列され。

コロナを起因とした争いがあちらこちらで勃発。

 

人間って、こんなに醜いものだったっけか。

誰に何を期待していたのかもよく分からないが、人間というものに失望してしまった。

 

そんな負の感情が渦巻いていくと、笑顔も減ってくる。

 

 

次に大きな出来事だったのが、三浦春馬の自殺。

忘れもしない7/18。

 

リビングで楽しく音楽の日の放送を見ていた。

 

三浦春馬死んじゃったらしいよ」

昼過ぎに起きてきた弟が一言。

「いやいや、寝起きでなんの冗談よ」

なんて返したが、真剣な顔で「嘘じゃないって!」

 

その数分後、ニュース速報で三浦春馬の訃報が伝えられた。

 

そもそも、私の中で特段大好きな俳優さんではなかった。

それなのにぽっかり大きな穴が心に空いたような感覚に陥った。

 

三浦春馬の自殺は多くのワイドショーが報じ、多くの人が悲しみに暮れた。

それでも街はいつもと変わらない。

時間は止まることもないし、当たり前が当たり前のまま進み続けるだけだった。

 

『あぁ、こんな素敵な人がこの世からいなくなっても世界は変わらないのか』

 

 

そう思ってしまった。

そこからが自分の中での悪循環の始まりだった。

 

今まで自分と誰かを比べることはあまりしてこなかった。

だって、自分は自分だから。

 

自分はあの人になれやしないけど、あの人も自分になれやしない。

そう思ってたはずなのに。

 

三浦春馬が死んでも何も変わらないんじゃ、自分が死んでもほんとちっぽけなものなんだな。なんて思った。

 

そこには苦しいから死にたい。

辛いから死にたい。

 

なんて感情ではなくて、あぁ死んでもいいかなという死にたいだ。

 

どうせ周りに言っても理解されないだろうし、されたところで「死んじゃダメだよ!」って言われるだけ。

 

別にそんな言葉も欲しくなかったから、しばらくの間は友達にも「さすがにあのニュースは自分のメンタルにもきたわ笑」なんて、冗談交じりにしか言ってない。

 

でも、心の奥底では『死にたい』という感情が渦巻き続けてた。

 

そもそも、死んじゃいけない理由ってなんだ?とすら思った。

生きる理由もないのに、何が楽しいんだ?そう思った。

 

 

ここまで読んでもらったみんなからしたら、だいぶ頭湧いてんなって思うかな。

自分で今振り返ってみて思うよ。だいぶ頭湧いてたわ。

 

けど、そう思った過去は変わらない。

まぁもう少し話させてよ。

 

 

 

そんなこんなで月日は流れて、9/27。

ナゴルノ=カラバフ紛争が勃発した。

簡単に説明すると、アゼルバイジャンアルメニア間の戦争だ。

 

私は過去に、心優しいアゼルバイジャン人・アルメニア人に出会ったあことがある。

けれど、その人らの安否も分からない。

 

遠い国で行われたこの戦争は、日本のニュースでは全くと言っていいほど情報がなかった。

 

 

 

そして10/30。

私が海外で1番大好きな街、イズミルで大地震が発生。

ニュースで少しだけ流れた映像は、自分の歩いた思い出のある道や町並みばかり。

建物は崩壊し、人は生き埋めに。

 

 

それから少しして、エチオピアでの内戦が勃発。

少数派部族による大量虐殺が決行された。

本当はエチオピア人は親切な人ばかりだ。首都アディスアベバで体調を崩した私をみんなが気遣って、助けてくれた。

 

 

どのニュースをみても辛かった。

自分の大好きな場所で、大好きな人たちが争っている姿や苦しんでいる姿を見るのが。

そして何も出来ない自分に絶望感を覚えた。

 

 

このブログで過去に、旅をする理由の1つに『他人事を自分ごとにする』と書いたような気がする。

これまで見過ごしていた小さなニュースでさえも、自分ごとのように感じるために旅をするのだと。

 

何が自分ごとだ。

何も出来やしない、当人達と悲しみを分け合うこともできない。

結局何をどうあがいても、自分が直接的に関与し続けない限りは他人事でしかないじゃないか。

 

そう思った瞬間、今までの自分の考えを、自分の考えによって全否定してしまった。

自分の首を自分で締めるようなものだ。

 

 

 

自分なんて、無力な人間だ。

自分なんて、誰にも必要とされてないんだ。

自分なんて、人に迷惑をかけるだけなんだ。

自分なんて自分なんて。

 

 

そんなことを考えながら、年末まで過ごしたわけだ。

丸1年間、ブログなんて更新していく心の余裕すらなかった。

 

 

じゃあ、なぜ今こうして更新できているかって?

生きる理由じゃなくて、死にたくない理由を見つけたから。

 

まだ気持ちは前よりは沈んでいるかもしれないけど、上り調子ではある。

 

死にたくない理由ってのはさ、ものすごく単純なことなんだけど。

茶化さないで聞いてくれる?

 

 

『自分の大好きな人たちと、あなたと、笑って過ごしていたい』

 

 

 

ただそれだけ。

きっとここまで読んでくれた人は、自分の大好きな人に該当する人たちだと思う。

もしくはこれから大好きになっていく人だと思う。

 

 

死にたい死にたいって文字ばっか並べて、気分悪くさせてしまったかもね。

けどこれが私。

 

こんなネガティブな気持ちで1年を過ごしたのは初めてだし、今思えばいい経験だったのかもしれない。

 

 

ちなみに、なんでこんなことを書こうかと思ったか。

携帯も変えて、SNSのアカウントも総替えしたから数人に心配の声をいただいたから。

毎回説明するのも面倒だし、全部曝け出しちゃえと思ってブログにしてみた。

 

 

あと、もしかしたら同じような気持ちの人がいたとしたら1人じゃないよって伝えられるかなって。

 

自分は誰にもちゃんと相談できなかった。こんなに死にたいって思ってるんだって、辛いんだって。

きっと真剣に向き合ってくれる友達はいたのに。

 

最初から相談しておけば、死にたいとすら思わなかったかもしれない。

きっとこの感情が行き過ぎたら、本当に死んでいたかもしれない。

 

もし今死にたいと思ってる人がいるなら、相談できずに悩んでる人がいるなら、1つ聴いてほしい曲がある。

 

森山直太朗『生きてることが辛いなら』

本当に心が救われたから。

 

 

くたばる喜びとっておけ

 

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